神戸地方裁判所姫路支部 昭和36年(ヨ)16号 判決 1961年5月02日
申請人 下川喜久子
被申請人 敷島紡績株式会社
主文
申請人が被申請人に対して提起する雇傭契約存在確認竝に賃金請求の本案訴訟の判決確定に至るまで申請人が被申請人の従業員である仮の地位を定める。
被申請人は申請人に対し仮に昭和三五年一二月六日から同三六年四月二〇日迄の一日金三百三十円の割合による金員を支払い且つ同三六年五月二七日より毎月二七日に各前月二一日から当月二〇日迄の一日金三百三十円の割合による金員を支払わねばならない。
申請費用は被申請人の負担とする。
(注、無保証)
事実
第一当事者双方の申立
申請代理人は
本案判決確定に至るまで仮に
一、被申請人は申請人を雇傭しているものであることを確認する。
二、被申請人は申請人に対し一日金三三〇円の割合による金員を昭和三五年一二月六日から同月二〇日迄の分を同月二七日に支払い、同三六年一月二七日から毎月二七日に各前月二一日から当月二〇日迄の分を支払わねばならない。
との裁判を求め、
被申請代理人は
申請人の申請はこれを却下する。申請費用は申請人の負担とする。
との裁判を求めた。
第二事実
申請代理人は申請の理由として次のとおり述べた。
一、申請人は昭和三二年四月一四日被申請人会社に雇傭されて姫路市飾磨区細江の被申請人の飾磨工場に精紡工として働いていた。
二、申請人は昭和三五年二月頃から日本民主々義青年同盟(以下民青と称す)に加盟した。民青は容共民主々義団体である。
三、被申請人は申請人が右民青へ加盟したことを嫌つて
(イ) 昭和三五年四月頃には現場係長田村氏を以て外部団体との交渉は一切打切つて貰いたい。
(ロ) 同じ頃から班長藤平よりは何十回となく同様のことをいわれ、民青は共産党に通じているものだから、そんな人は会社としては困る旨をいわれた。
(ハ) 同じ頃寄宿舎の舎監からも右と同様のことをいわれ、特に舎監は「そんなに民青へ行きたければ、会社をやめて行つてくれ」と云い云いした。
(ニ) 同年九月中頃には徳島(申請人の故郷、実母の居る家がある)から被申請人会社の出張所(主として女工募集の為の出張所であつて、申請人もその出張所を通じて被申請人会社に入社した)の人が来て、民青などをやめないのなら実母に云つて、実母から引きとらすようにする。又会社もこのままでは置くまいし、そうなると徳島方面からの人は雇わなくなるだろう。それでは申請人も故郷の人々に対して困ることになるのでないかとの趣旨を述べた。
(ホ) 同年一〇月終り頃和歌山に働いている申請人の実兄昇が来て、右出張所の人と同じようなことをいうて是非民青をやめよと云うて行つた。
(ヘ) 同一一月二九日には又右和歌山の兄昇が来て前同様のことを云い且つ今度は「会社をやめてくれ。さもないと自分の勤め先にも差し障りが出来て来るかも知れんだろうから」と云う趣旨を述べた。
四、右述のような事態のうちで、実兄の言葉に困惑せしめられて申請人は前同日遂に昭和三五年一二月三一日限り退社する旨の届を書いて被申請人会社へ提出した。被申請人会社は勝手に退職の日を一二月五日限りと書き直して右一二月五日限り雇傭関係は消滅したとして申請人の就労を肯じない。
五、而して申請人の実兄昇が前記の如く「民青をやめよ、然らざれば、会社を辞めよ」と云つて来たのは実は被申請人会社の要請によつてなされたものであることが後で判つた。要するに被申請人は「退職願を出せ。会社としてもこのままにはして置けない。今退職願を出せば、年末賞与等の取れるようにしてやる」と云つたのである。そこで申請人は一一月二九日付退職願に一二月三一日限り退社するとの趣旨を記入して提出したのである(尤も後に被申請人側で一二月五日限り退社する旨訂正したことは前述のとおり)。会社としてもこのままにはして置けない。退職願を出せ。出さねば解雇するというのである。従つて申請人は解雇されたに過ぎない。只後に問題の起らぬようにとの配慮がなされていることは判るが、斯くの如きは退職と考えるよりは寧ろ解雇されたものというべきである。そして右解雇は前述のとおり申請人の思想信条を嫌つてなされたものであるから無効である。
六、本件解雇を退職願に依るものと見るとしても、この退職願は前述の状態のなかで著しく申請人の意思、自由を圧迫して書かされたものであるから無効である。蓋し被申請人の行いたる強迫行為は満一八歳の女子精紡工員に対して行われたものであるが、若し申請人以外の同年輩の子女に対し同様の所遇をすれば必ずや申請人同様退職願を書いたであろうことは容易に考えられる。果して然らば右退職の申入は「普通人をしてその地位に立たしめても他の途を択ぶことを期待し得ない程度の抗拒し難い威迫の下に為された意思表示として無効である」(東京高昭和二四年(ネ)第九九号)。
七、然らずとしても、少くとも民法第九六条にいう強迫による意思表示に因る意思表示であるから、申請人は表意の翌翌翌一二月二日に舎監及び人事係の人に右退職は取消す旨意思表示をした次第である。
八、尚最後に本件退職願は昭和三五年一一月二九日付で同年一二月三一日限り(一二月五日限りと訂正されている)退職するとの趣旨であるところ、一二月二日この退職願の撤回の申出をしたのであるから本件労働契約は遂に解消されることなく今日尚申請人は被申請人に雇傭されているものである。
九、右の通り被申請人は昭和三五年一二月五日限り申請人との雇傭関係は解消したとして全然申請人の就労を拒否しているが、申請人は平均賃金一日金三三〇円を得ていたもので、毎月二〇日締切二七日払いで賃金の支払いを受けていたものであるところ、理不尽にも全然就労をさせず従つて又賃金の支払いもしないので、専ら賃金のみによつて生活している申請人としては別に蓄えとてもなく全く今日に困るので取敢ず本申請に及んだ次第である。
被申請代理人は答弁並に抗弁として次のとおり述べた(数字は申請人の主張に対応)。
一、認める。
二、認める。
三、被申請人は申請人主張の如き退職を勧告したことはない。
四、申請人が退職したのは昭和三五年一一月二九日である。同年一二月五日は有給休暇の関係上単なる給料計算上の期日に過ぎないし、申請人の承諾の下に申請人の利益のためになされたものである。
五、被申請人は申請人の兄昇に対し申請人の退職を要請した事実はないし、その退職願が強迫されて出されたものとの主張は否認する。現に申請人は姫路簡易裁判所昭和三五年(サ)第四八四号仮処分異議事件の昭和三六年二月二一日の口頭弁論においての裁判官の問に対し昭和三五年一一月二九日には自らの自由意思により退職する意思があつたことを陳述している。被申請人は右申請人の退職の申入を即日承諾して茲に申請人と被申請人との間の雇傭契約は合意解約されたのである。被申請人が申請人を解雇した事実はない。右のとおり合意解約であるのに、これを以て解雇であるとする申請人の主張の法律上の根拠は不明である。
六、申請人は昭和三五年一一月二九日その自由なる意思を以て退職を決意し、申請人の自由意思に基き実兄昇と相談の上退職願を自ら書いたものであり、その間被申請人の何等の強制もない。被申請人は申請人の退職の意思を確認し、直ちにそれが承諾を与え諸手続を了し、それに伴う金銭的清算は翌三〇日これを為したのである。雇傭契約の解約と同時に退職に伴う爾後の諸手続を申請人の承諾の下に完全に了したのである。
七、被申請人は前記屡述の如く申請人の退職の意思表示に対し強迫も強要もしていないからこれを取消し得ないものである。
八、被申請人は昭和三五年一二月二日申請人から退職の意思表示の撤回の申入を受けたことはない。尚法律上意思表示の撤回が出来得るのはその効果の発生前でなければならない。本件雇傭契約の解約の意思表示は昭和三五年一一月二九日退職願の形において被申請人に提出され、被申請人の承諾により同日その効果が発生している。従つて一二月二日には法律上も撤回の余地はない。
九、申請人主張の平均賃金はこれを争う。締切日及び支払日についてはこれを認める。
一〇、上来述べた如く申請人は昭和三五年一一月二九日申請人の自由なる意思により退職を申出、被申請人はこの申出を承諾したので、当事者間の雇傭契約は右期日を以て終了したのである。申請人は同年一一月三〇日に右退職に基き残りの給料二、三八〇円、退職金八、四七二円を受領し、労働組合、共済組合からも退職を理由に金員を受領している。なお同日和歌山市吹尾町三丁目三五下川昇に転出すべく手続を了し、同年一二月五日に健康保険、失業保険等の資格喪失が各確定し、同年一二月八日に失業保険受領のための離職票も被申請人から受領した。
一一、以上のごとく申請人被申請人間の雇傭契約は昭和三五年一一月二九日を以て終了しているのであり、契約終了に対する法律上の瑕疵は何等ないのであるから申請人の本件申請は失当であり却下さるべきものである。
第三疏明方法<省略>
理由
申請人主張の第一、二項の事実は当事者間に争がない。そして成立につき争のない甲第一号ないし第三号証、乙第一号ないし第一三号証、証人名児耶勲、同渡辺徳吉(後記信用しない部分を除く)の各証言及び申請人本人尋問の結果を綜合すれば一応左記事実が疎明せられる。即ち申請人は昭和三五年二月頃に民青に加盟し民青や「わかもの」のサークルに出入するようになつたのであるが、同年三、四月頃から申請人は数回に亘り工務の田村氏や班長藤平氏から「外部団体との交渉は一切打切つて貰い度い」とか或は「民青は共産党に通じているものであるからそんな人は会社として困る」との忠告を受け、又同年四月頃には寄宿舎の舎監の渡辺氏から同様の忠告を受けたのみならず、「そんなに民青へ行きたければ会社をやめて行つてくれ」といわれたので、申請人は民青へ行かないことを誓約し、同年五月及び六月の二ケ月間は右サークル活動を一時中止していたのであるが、申請人が同年七月頃から再び右サークル活動を始めたので、前記班長藤平は前同様の注意を為し、又八、九月頃被申請人が工員募集のため設けている徳島出張所の西原某が申請人の所へ来て「あなたが民青を止めないならお母さんに知らせて連れ戻させるし、又会社もこのままでは置くまいし、そうなると徳島方面からの人は雇わなくなるであろう。それではあなたも故郷の人々に対して困ることになるのではないか」との趣旨を述べて、民青や「わかもの」との関係を絶つよう勧告した。又被申請人は同年九月一四、五日頃申請人が極力反対したに拘らず会社の都合上必要であるからとの理由を以て応援の名目で精紡工としては類例の少い炊事係に配置転換せしめた。そして同年一〇月末頃和歌山で工員として働いている申請人の実兄昇が被申請人側の要望に基いて説得にやつて来たものと推測されるのであるが、突然申請人を訪れて申請人に対し「民青をやめて貰いたい。民青をやめずにいると兄や妹にも悪い影響を及ぼすから、勤務先の会社へもお前のことについて手紙が来ているから」と強くいうので、申請人は兄を安心させるため民青を止めると約束したところ、兄は舎監に見せるため誓約書を書いて欲しいと要望したので、申請人は「(1)組合活動にはタツチしません。(2)自治会にもタツチしません。(3)民青を止めます。(4)共産党も脱退します。」旨を便箋に記載して兄昇立会の下に舎監の渡辺徳吉氏に提出した。然るに申請人はその後も依然サークル活動を続けていたところ、同年一一月二九日に再び実兄昇がやつて来て申請人に対し「徳島出張所の西原氏が『喜久子を連れ戻してくれ、どうせ会社としても首にするつもりらしいから』と和歌山までいつて来たし、母も泣いて来たから、今度は会社をやめてくれ、お前が会社をやめないと兄も失職して路頭に迷うことになるかもわからん。会社としても今やめるならボーナスも貰えるようにするといつている」と申向けて退職するよう迫つたので、申請人も已むなく退職を決意し、同日付で一二月三一日限り退職する旨の退職願(乙第一号証)を作成して舎監の渡辺氏に提出すると共に退職に伴う一切の手続を同氏に一任した。その際申請人の兄昇は舎監に対し自分は今日帰えるが、妹は一二月一日に自分の所へ帰ると伝えたので、渡辺氏が右退職願を人事係に廻したところ、人事係の方では一二月一日に帰るのに一二月三一日迄在籍させるわけにゆかぬ。ボーナスは出るようにするから残つている年次休暇四日を加えて一二月五日付に訂正して欲しいといつたので、渡辺氏はその旨申請人に伝えて了解を求めたところ、申請人も既に退職を決意した直後であつたので何等これに対し異議を述べなかつた。そこで渡辺氏は退職の日を一二月五日と訂正した。以上の事実が一応認定せられる。甲第三号証の記載及び証人渡辺徳吉の証言中右認定に反する部分は信用しない。
右認定事実を以て被申請人は申請人を解雇したものと解することはできないし、その他右認定事実の外に被申請人が申請人を解雇したことを認むべき疏明がないから申請人の解雇を事由とする本件申請は採用しない。又右認定事実によれば、被申請人は申請人が民青に加盟し、サークル活動をしていることを嫌つて同人の退職を希望し色々の人を通じて同人の退職の説得に努めたものであることも推認し得るのであるが、申請人が前示退職の意思表示をなすに当り全く意思の自由を喪失する程度の圧迫を受けたものとも解せられない。他にこれを認めるに足る疏明はないから申請人の退職の申込の意思表示が無効であることを前提としては本件申請を許容するに由ない。然し前示認定の諸事情の下に申請人の兄昇のなした説得は通常の説得の程度を著しく逸脱するものであるばかりでなく申請人が当時未だ年齢一八才の女工であること、父は既に死亡し昇が唯一人の兄であること等に鑑みれば、申請人が兄昇の前示言動に因り恐怖を抱きこれに基いて本件退職の決意をなしたものと認めるのが相当である。乙第二号ないし第一三号証によつては右認定を動かすに足りない。従つて本件退職の申入は兄昇の強迫によりなしたものとしてこれを取消し得るものと解すべきところ、申請人が昭和三五年一二月二日に舎監の渡辺徳吉氏及び人事係長の藤原常一氏に対し右取消の意思表示をしたことは前示甲第三号証及び証人名児耶勲の証言及び申請人本人尋問の結果を綜合して一応これを認め得る。右認定に反する甲第三号証の記載及び証人渡辺徳吉及び同藤原常一の各証言は信用しない。従つて申請人の前示退職申入の意思表示はこれによつて有効に取消されたものというべく、従つて申請人と被申請人との雇傭契約は退職の意思表示の撤回を理由とする本件申請の当否につき判断するまでもなく有効に存続するものというべく、申請人は被申請人の従業員たる仮の地位を有するものというべきである。
次に申請人の賃金の仮払の請求について考察するに、本件雇傭契約が有効に存在する限り申請人は賃金支払請求権を有するものなるところ、前示乙第一二号証の記載、証人佐野勝已、同藤原常一の各証言及び申請人本人尋問の結果を綜合してその平均賃金は一日三三〇円を下らないことが認められるし、被申請人会社が毎月二七日に前月二一日からその月の二〇日迄の賃金を計算して支払つていることは当事者間に争がない。而して被申請人は申請人との雇用関係は昭和三五年一二月五日限り終了したとしてその就労を拒否していること及び申請人は賃金のみによつて生活しているものであり、別に蓄えもないことが申請人本人尋問の結果によつてこれを認め得るので、被申請人をして申請人に対し担保を提供させないで、主文第二項記載のとおりその平均賃金を仮りに支払わしめる必要があるものと思料する。
よつて訴訟費用の負担につき民事訴訟法第九五条、第八九条を適用して主文のとおり判決する。
(裁判官 庄田秀麿)